2010年07月30日
フィジーだより①
今回は、H20年秋よりフィジーへ派遣されているシニアボランティアの松岡淳さんより、活動のおたよりが届きましたので、松岡さんの活動をご紹介します
任期も後2ヶ月足らずになってしまいました。最後の提案書とここで出会った魚のまとめを書いているといろいろなことを思い出します。
一昨年の10月、落ち着いた先がフィジー旅行案内書でイメージしていた「南国の楽園、青い空と美しい砂浜」とは異なったサトウキビ工場の煤煙が降ってくる喧噪なラウトカ市街地が現実の我が町でした。
毎日そこのアパートから窓ガラスのないおんぼろバスに乗って通勤する水産事務所は浄化処理されていない排水が流れ込むラウトカ漁港のそばにありました。
フィジーは1643年タスマンが来航し、1874年英国の植民地となり、そのサトウキビプランテーション政策により労働者として入植したインド人と,先住のフィジー人とでなりたっています。
この島の土地所者であるフィジー人社会と土地を借りては町を作り経済を育ててきた40%をこえるインド人社会が溶け込まずに混在しているように見えます。
公用語は英語ですがそれぞれの社会ではフィジー語、ヒンディー語が話されています。
私のアパートの周りにも教会や集会所、モスクがあり、フィジー人の聖歌やお説教、インド人のヒンズー教ご詠歌やイスラム教アザーンの声が良く流れてきます。
特に土日はマイクでボルテージの上がった歌やお説教が朝早くから夜寝る頃まで聞こえてきます。当初は異質な環境に驚きもしましたが、この頃では時々聞き惚れることもあり、懐かしい思い出になりそうです。
私が最初に仲良くなったのがフィジー人のダイバーでした。それは私が良く行く港のカフェテリアがダイバーのたまり場だったからです。フレンドリーなフィジー人はダイバー漁調査のためボートへの同乗を快く認めてくれました。元ラグビー選手のたくましいダイバーが2,30m潜って突いてくるフィジーの初めて見る魚に心踊る思いでした。
私の役割は水産物流通改善のアドバイスですのでフィジーの豊かな水産物資源が持続し、その恩恵に多くの人がもっと恵まれるようにするには何が問題で、必要なものは何かを模索しながらの活動ですが、その一貫で鮮度管理のワークショップを開いたことがあります。ボートに乗り実習をしたりするのもカフェテリアで知り合ったダイバーさんです。
漁はフィジー人の潜り漁ばかりではありません。むしろインド人漁師の一本釣りの方が水揚げ量も多いでしょう。赴任して間もない頃、「毎朝漁港を見て回ろう、漁師さんや仲買さんに顔を見せ挨拶することから始めよう。」と心に決めて半年が過ぎた頃、ようやくインド人の漁師さんとも顔見知りになり一本釣りや刺し網漁に同乗することが出来ました。
ダイバー漁は屋根なしのボートですので南太平洋の太陽に容赦なく焼かれますし、一本釣りはオールナイトですし、どちらもとても疲れるものですが、魚好きな私にとっては共に一番楽しい時間でもあります。また漁船の舳先に寝転んで晴れた夜空を見たとき水平線まで続く天の川とその星の数の多さに圧倒されました。そういえば私の子供の頃これくらいの天の川が見えていたなァと思い出しながら南十字星を探したりしました。
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